人間56年・・・思い出せないことが多くなりました。
山椒魚は悲しんだ。 ・・・再び
作家の野坂昭如が、井伏鱒二が『井伏鱒二自選全集』で『山椒魚』末尾の十数行を削除したことについて、激昂し、新聞で自身の意見を述べた。

その主旨は概略以下のごとき、と記憶している。(20年以上前の話だ)


『山椒魚』は、大正12年に書かれた作品であり、名作であるため多くの教科書に採用され、たくさんの人がそれを読み、感銘を受けた。感銘を受けた人たちの心のなかに、今でも『山椒魚』はある。

そのような特殊な作品を、それを書いた作家が、勝手に変えていいものなのか。

そもそも文学作品は、作家がそれを書き終えて上梓したとき、作家の手を離れ、読者のものになっているのではないか。

よって、今回の『山椒魚』ラストの十数行の削除は、これまで『山椒魚』を読み、『山椒魚』を心の中に暖め続けてきた読者に対する重大な裏切り行為である。


・・・ざっと、こういう感じで、他の作家や評論家たちもだいたい同じような主旨で、井伏鱒二の 暴挙 に対する怒りの発言をしていた。

暴挙 なんだろうか。そのときはかなり真剣に考えた記憶がある。答えは出なかったが。

著名な作家は、自分の新しい選集を出すとき、若干「てにをは」を直すくらいのことはするかも知れない。しかし、そういうことをする作家は稀だ。ほとんどいないと言っていい。一度出版したら、まず作品をいじることはしない。
井伏鱒二は、出版して60年以上たって、信じがたい大胆さで『山椒魚』の末尾十数行を削除した。

・・・なぜ、こだわったのだろうか。わざわざそんなことをする必要が、どこにあったのだろうか。


怒りの抗議を一身に浴びた井伏鱒二自身は、沈黙していた。その沈黙に、何かしら意図を感じた。


なにをそんなことで騒いでいるのか。私がどれだけ悩んだ末にこういうことをしたのか、誰か一人でも分かっているのか。


・・・そんなようなことを思っている気がしてならなかった。


このことはもしかしたら、昭和の文学史上、最大の事件なのかもしれない。
一度発表された作品は、誰のものなのか。


――これから書くことは、一種のミステリーなのです。なぜ削除したのか。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する